ゆ き と の 書 斎

気まぐれゆきと帳過去ログ一覧

レビュー(映画)

2006年10月19日
「人狼」

> 映画掲示板
> kawamura君
> 「人狼」

俺も「人狼」は傑作だと思う。
日本のアニメにはいくつかの流れ(ジャンル)があるけど、80年代半ば以降に確立されたリアル系アニメの極北だろう。
俺は押井守の実写映画「赤い眼鏡」「ケルベロス」藤原カムイの漫画版「犬狼伝説」を見てきて世界観は理解しながらも「ちょっとな~」と思っていた。それが逆に「人狼」が面白く思えたバイアスとなったかもしれない。
初めて「人狼」でケルベロスの世界観に触れた人の感想はどうなんだろう。

ちなみに川村君よ、引越し文その2で「日本映画の手法」とあるけど、これはどういったものなんだろう?
俺は邦画をあまり観ないのでよくわからんのだが、興味があるのでよかったら語ってくれ。

2006年10月24日
> 映画BBS
> 淀kawamura貞治君
> 考えるに日本映画とは・・・

なるほど、参考になったよ。
要するに俳句の精神だな。

> やはり、文化的な差が演出に出るのではないか。
> 「言わなきゃ分からない」を信条とする西洋と、
> 「言わなくても分かるでしょう」を美徳とする日本。
>
> 日常生活を描写し、とくに事件が起こらない一般人の
> その日暮らしを描くことが可能なのも、そういった情感
> を伝えることを大切にした日本映画ならでは。

(「人狼」ではこういった要素が成功している、と俺は認めていることを前提として読んでほしいのだが)
俺の作品にはまったくない要素だな。「四畳半もの」みたいな…。
我が木城家は「言わなきゃわからん」が家風だからね。
自分の作品で日常生活の描写をしなくちゃならなくなっても、退屈で苦痛で死にそうになるしな。

> 平面的に捉えたら、「ヒマなシーンの連続で退屈だなあ」
> で終わってしまうからね(しかも、本当につまらない場合
> もあるから観る側もリスクが伴う)。

ここだよな。
俺はもともとは映画監督になりたかったから、たまに邦画(実写)を観る機会があると平静には観られない。
外国映画より何百倍も厳しく批判するし、ツボにはまった時はあり得ないぐらい絶賛する。
他人事として観られない。「自分が撮っていたら…」という観点で無意識に観てしまう。

作り手が「ヒマなシーン」をあえて撮る場合、そこには何か演出上の理由がある「はず」だ。
そしてその演出は最終的に作品全体の「テーマ」、監督の主張につながっている「はず」だ。
(ここでわざわざ「はず」とカッコ付きで書いたのは、演出の意識が低くて、漫然とフィルムを無駄遣いしている邦画が多いと感じているから。ここでは演出レベルが低い作品は除外し、ちゃんと製作者の意図通りに演出が機能している作品だけを論じる)

しかし作品全体のテーマや監督の主張に観る側が「共感できない」というケースもある。
(というか邦画にはこういうのが非常に多いと感じるのは俺だけ?)

つまり最悪の場合、「ヒマなシーン」を見せられた上に「共感できない」ということになる。
こういうのは作り手の自己満足だ。
これは客としては「金返せっ!!」ということになるよな。
客としては「共感できるできないは人それぞれだが、せめて金払った分は楽しませろ」と言いたい。

また昔から押井守の実写映画はこの手の自己満足の生成物だ。言っちゃ悪いが「道楽」だ。


もう一歩踏み込んで、「日本映画的演出」の持つ意味を批判的に論じてみる。

・「日本映画的演出」は「運命受容的」であり、変化のない日常を肯定的に愛することはあっても悪い現状を積極的に変えようという意志には欠ける。
・「日本映画的演出」では時間の流れは一定であって、(季節の変化はあるが)恒常的であり、始まりや終りはない。主人公が最後に破滅したりする場合でも、大きな風景は変化しない。
・生ぬるく、非理性的、無批判的である。
・視野が狭い。異文化・異風土・異民族・異宗教・異なる時空間を考慮しない。せいぜい生まれ変わりを論じるぐらいだが、その場合でも生まれ変わるのは決まって日本である。

以上、「日本の和」的「俳句の精神」的「四畳半もの」的「日本映画的演出」を思いつくかぎり批判的に書いてみた。
昔から日本の閉鎖的体質が嫌いな俺は、あっという間にこれだけのことが書けるわけだが、外国人に批判されるよりは日本人同士で問題を共有する方がいいだろう。

ここから逆に「人狼」が傑作たりえている理由を考えてみる。
すると、上であげた「日本映画的演出」の悪い点がネガのように裏返って、すべてラストの破局への叙情性を高めるためのすばらしい演出に変わっていることがわかる。
冒頭に破局がにおわされていることによって、日常的なシーンの描写にも「張り」がでている。

それでも寝てしまう人がいるのは、「テーマに共感できない」というケースなのかな。
「主人公がなぜ自分や状況を変えようとしないのだ?」という(まさに西洋理性的な)問いかけがあるかもしれないけど、それは問うだけ野暮というもの。
主人公が成長したり状況を変化させたりするような銃夢的な話では、「日本映画的演出」との矛盾が甚だしくなって別の作品になってしまう。

押井守が作った「ケルベロス」の世界は、客にとって「こんなものを見せて俺にどーしろってんだぁぁぁ!?」という物語ばっかりなので、そこは客にも覚悟というか、予備知識が必要なのかもしれん。
全体主義政権下の、特殊部隊の隊員やレジスタンスの人間関係の物語だけど、善悪を問う話じゃないし、道徳の話でもない。
また作り手が主人公またはレジスタンスの少女の行動や考え方を肯定しろと強要しているわけでもない。
そこははじめから踏まえておかないと、生理的に受け入れられんという反応もあるかもしらん。

このシチュエーションは別の状況、たとえば「ナチス政権下のSS党員とレジスタンスの少女の悲恋」としてみれば分かりやすいと思う。
だけどナチスとか出すと政治的に勘ぐられるわけだし、「架空の日本」を舞台にして政治的に中性な物語を描けるのも、日本のリアルアニメの他にはない特色だろう。

川村君がこれをハッピーエンドだと言うのは意見が分かれるところだろう。
俺は主人公のその後を考えると暗澹たる気持ちになるのだが…。

さて、俺が外国作品を評する時と、国産の映画・アニメ・漫画を評する時とで一番違う点は、良い点・悪い点を今後の作品作りにどう生かしていくか、それを国産作品では視野に入れて論じるという点にある。
それは俺が現役の作り手だから。
作り手にとっては傑作と評される作品も通過点に過ぎない。傑作をひとつ作ったら人生おわり、ではないのだ。
すでに作った作品が悪ければ次にいいものを作ってほしいし、すでに作った作品がよくても次に作る作品もよくあってほしい。

欠点だらけの押井守脚本を、欠点も多く持つ「日本映画的演出」を使いながら奇跡的なバランスで「人狼」は成功した。
これは監督の沖浦氏が天才だからなのかどうか、俺にはまだ判別がつかない。
しかし、たぶん同監督による「人狼2」はないと思う。
あったとしても、主人公をはじめとする登場人物は一新せざるをえないだろう。
理屈ではあの世界設定でいくらでも「お話」を作ることはできるけど、高い寓意性と叙情性を「人狼」レベルに持っていくのはたぶん至難。
もしやってのけたら本当の天才。天才は理論を超えるものだから。

自分としては、もう「ケルベロス」物はいいから、オリジナル設定の作品を作ってほしい。
その場合、沖浦氏が自分で脚本を書くんじゃなくて、プロデューサーがどっかから持ってきた脚本でやったほうがいいと思う。
設定だけ見たらアクション物にしかならないような脚本を、沖浦氏の「日本映画的演出」で作ったらいい化学反応が起きて傑作が生まれるような気がする。