ゆ き と の 書 斎

気まぐれゆきと帳過去ログ一覧

雑文・その他

2007年12月19日 その謎には納得のいく答えが用意されているのか?

今僕の頭をもやもやと占めていることが、「物語における謎の置き方、その結末のあり方」についてです。

前回ゆきと帳に書いたように、HDDレコーダーに撮りだめした半年前のアニメを消化しています。
半年前に深夜TVでやっていたアニメ「スカルマン」(石森章太郎原作)の前半が面白かったので、独りの時に前倒しで最終回まで観たんですが…
納得いか~~ん!!
さんざん思わせぶりに引っぱっておいてこれかよぅ!!
俺の頭が悪いのか、肝心の基本設定の部分がよくわかんねえよう!!
…という状態に陥り、以来もやもやと気分が晴れない状態です。

この作品を観てない人にはなに言ってるかわからないでしょうし、あまり他者の作品を批判するとカルマが即座に自分に跳ね返ってきたりするんですが、この作品の批評を越えた「物語の語り方/作り方/演出論」としてちょっと考えこんでいるということです。

読者の興味を引っぱるために謎を置く…ごくありふれた手法です。
謎で引っぱって引っぱって、最後に謎が明かされる。答えが示される。
本来ならばここで最大のカタルシスがあってしかるべきだと思いますが、答えが示されたとたん「なんじゃそりゃぁ~!?」としらけきってしまうというケースがアニメではけっこう多いような気がするんですが…。(もちろん全部ではありません)

僕は「謎」と「答え」は秤にかけた時つり合うぐらいでなければならない、と自然に思いこんでいましたが、世の中の人すべてがそう考えているわけではないのではないか?という疑問がわきました。
つまり、「謎」はそれ自体面白く楽しめればいいんであって、「答え」に実を求めるのは無粋なのだ、という考えもあるのではないかと。

これはどちらが正しいか間違っているかということではなく、「どっちがより面白いか」という主観的なテーマなので、答えは出ないかも知れないし、答えが出ても僕の作風が変わることはないかも知れませんが。
みなさんの考えを聞きたいところです。

2007年12月24日 「謎のあおり方」の謎

さて、前回の「物語における謎の置き方、その結末のあり方」の続きです。
BBSでレスをつけてくださった方々、ありがとうございました。

> 仁さん
> 旧銃夢のエンディング、自分も好きです。
> 当時は笑う男(ガルエデ)って何者だったんだ~!と悶絶しましたが(^^;
> (ちなみにPS版をプレイして解決しました)

すんませ~~ん!! m(ToT)m 
↑悪い例の見本。orz
あれは最終回にガルエデが出てきてガリィと戦う予定だったんですが、気に入らなくて急遽ザレム墜落エピソードに差し替えたんです。
↑見苦しい言い訳。orz

ゴ、ゴホン。気を取り直して…

議論をもう少し精密にするために、僕の言う「謎とその答え」を少し定義します。
定義1・謎は伏線になり得るが、伏線は必ずしも謎ではない。
定義2・答えはオチになり得るが、オチは必ずしも答えではない。
定義3・劇中で明示的に演出されたもののみを「謎」とする。

それぞれ分かりやすく書きます。
まず、"定義1・謎は伏線になり得るが、伏線は必ずしも謎ではない。"
これは「伏線」というカテゴリーの中に「謎かけ」は含まれるが、「伏線」がすべて「謎かけ」ではない、ということ。
ちょっと考えてみればわかりますよね。

"定義2・答えはオチになり得るが、オチは必ずしも答えではない。"も同じことです。
つまり僕が問題にしている「謎と答え」は、「伏線とオチ」よりもよりミニマムな問題だということになります。

"定義3・劇中で明示的に演出されたもののみを「謎」とする。"
それは製作者が意図的に「謎」の存在を視聴者/読者に投げかけている、そうした「演出上の謎かけ」だけをここでは「謎」として論じるということです。
たとえば「テキサス・チェンソー・マサクル」を例にとります。
観客はなぜこんな異常な殺人一家が生まれたか興味を持ちますが、その経緯について劇中ではいっさい謎かけがないので、「とにかくテキサスは怖え所だ」ということで納得するしかない。←(ここがこの映画のスゲェところ)
謎かけがないので、答えがなくても問題ない。


みなさんの考えを聞いても、「謎の重さに見合った答えを用意するべきである」という意見が大多数ですね。
すでに銃夢のファンとしてここに集っているために答えの傾向が似ている可能性もありますね~。
川村君の言う「セカイもの」系のファンの人たちに聞けばまた違った意見があるのかも…。


さて今回はちょっと見方を変えて、作者の側から「謎と答え」について書きたいと思います。

読者として作品を見ていると、まず「謎」があって「答え」が出てくる、というように見えると思います。
でも、僕の立場からすると違うんですよ。
まず始めに「答え」(となるアイディア)が思いついて、「謎」を置く、という順番になるんです。
だから「答え」は始めからあって…どのように「謎」を置くか、謎かけ、伏線の張り方の巧拙が問われることになる。
今までこれが当たり前だと思っていたから、他の作品で謎をあおるだけあおっておいて答えがショボイというのは一体どういう制作プロセスでそうなるんだろう、と逆に不思議です。

他の作品で「答えがショボイ」のは悪い点だから見習う必要はないにしても、「謎のあおり方」は見習うべき点が多々あるような気がする…。

僕の作者としての心理的弱点をカミングアウトしてしまうと、
「なるべく伏線張りたくない、謎をあおりたくないよぅ~(((゜д゜;)))」
というチキン精神に尽きます。
謎をあおるためには作者の側にはある種のサービス精神、ショーマンシップが求められます。
ショーマンシップというのは厚顔無恥な精神態度が絶対的に必要になり、しばしば僕のヤワな精神はそれに耐えられないのです…。
チ、チキン。
(by楳図かずお先生)

2007年12月29日 
> Ivanさん
> 「伏線の張り方」と言う意味でも「謎のかけ方」でも「逆転裁判」は凄い作品
> でした。
> 「ゲームのシナリオ」における理想の一つがここにある、と思えるほど。

「逆転裁判」はやったことないですけど、僕のせまい経験の範囲では、ゲームのシナリオで「謎~答え」のバランスの悪さにガクッときたってことはあまりないような気がします。
あまり数をやってないからかも知れないけど、アニメより失望することは圧倒的に少ない。ような気がする。
(クソゲーが少ないということではない。あくまでシナリオの話)
不思議に思ったので、少し考えて思いついた仮説を書きます。

結論から書くと、
・「ゲームのシナリオは必然的に推理小説と似た構造になるため、「謎~答え」のバランスが良くなるのではないか?」
というのが僕の仮説です。
「逆転裁判」はタイトルからして法廷推理物みたいですが、この仮説ではシナリオのあるゲームすべてを含みます(バイオハザードとか、メタルギアソリッドとか)。

ご存知のとおり「推理小説/ミステリー」は「謎~答え」がキモのジャンルです。
150年以上の歴史を持ち、「謎~答え」の手法や形式を研究し洗練させてきました。
作者と読者がフェアな協定に基づいて知恵を競う、精神的スポーツのような域にあります。
作者のアンフェアな行為(ちゃんと手がかりを示さなかったとか、答えを示さずに逃げるとか)はボコボコに批判されます。

ゲームでは、シナリオの有る無しにかかわらず、プレイヤーに「挑戦~成功~報酬」というエサを与え続けて先へ先へと進みたくなるように作る必要があります。
ゲームの構造がそもそも「挑戦~報酬」という系で成り立っているので、ゲームにシナリオがついた場合も、それに沿った形になると考えられます。
この「挑戦~報酬」という系を物語にフィットさせるにあたり、一番使いやすかったのが推理小説が育んできたフーダンニット、ハウダンニット、ホワイダンニットなどの各種技法だったのではないか…と僕は考えました。
(もちろんゲームのシナリオライターからは「推理小説なんて読んだことないよ」という反論もあるかもしれません。推理小説のエッセンスをまったく参考にしてないとすると、前述したゲーム独自の構造から、たまたま推理小説の構造と似た形に収斂進化したのかもしれません。この辺は僕は学者ではないので検証不能です。誰か論文書いてください)


初めのアニメの話に戻します。
「スカルマン」はどうも観た人が少なかったようなので、比較的メジャーな過去のアニメ作品を俎上にあげてみます。

・OVAジャイアントロボ 地球が静止する日
かくさんは好きみたいですが、僕は「なんじゃそりゃ~~~!?」( ̄□ ̄;)
とがっくしきた口。諸葛孔明はどうなったんだよう。

・ビッグ・オー
面白かったんだけど、最終回はわけわかんなかったな。無理に答えを示そうとして失敗した例。

・OVA真・ゲッターロボ 地球最後の日
僕はこれ大好きなのだが、観かえすたびに序盤の登場人物のあまりに大仰で思わせぶりな会話が鼻につく。
ジャイアントロボの影響があるのかもしれない。
すべての謎も「これがゲッター線の力か~!?」でチャラになってしまうというのもどうなのか。いいのか。
最後に「石川賢時空」に行ってしまうのですべてを許す気になる作品。

いずれも作画レベルも高く、世界設定やキャラクターの魅力もあるので熱烈なファンがいます。
こうして考えると、「あれだけ引っぱっといて答えがショボイ!!」と批判したくなるようなアニメって、作画レベルが高くて雰囲気があって初めはすごく面白く期待させてくれるような作品ばかりだな~。
作画レベルが低くてシナリオも演出もメチャメチャのアニメはそもそも最後まで観ないから、批判の対象にすらならないんだな。

ここから逆に仮説を立ててみる。
・「作画レベルが高いアニメほど、「謎かけ」で引っぱったあげくに「答え」を外すことが多い」

この仮説が正しいかどうか、もっとたくさんアニメを観ている人に検証してもらわないとわからない。
しかしこの仮説を補強する考察をひとつ書こうと思う。

それはアニメの持つ魅力(魔力)について。
アニメーションというからには動いてなんぼなんですが、優れたアニメーターが作り出す「ものすごく動きのいいアニメーション」というのは、それ自体にすさまじい魅力がある。
ストーリーとかと関係なく、観る者の目をとらえて離さない力は魔力といってもいい。
これには依存症になってしまうほどの魅力がある。
これは小説やマンガにはまったくないし、実写映画やゲームともまた違う力だ。
これはアニメというメディアの持つ最大の長所であり、武器だ。

しかし上の仮説では、そのアニメの魅力に頼りすぎるあまり、シナリオが雑になった、あるいは雑になりやすいという構造的不備について言っている。
魅力の部分が強すぎるため、客も目をくらませられてしまい、しばしばシナリオの雑さを大目に見てしまう。
批判的なフィードバックがないため、アニメ製作サイドも反省することなくますますこの傾向を強めていってしまう…
という悪いサイクルが起こっているのではないか?

みなさんの意見が聞きたい所です。

2008年01月01日 「死の無責任リレー仮説」

去年の話の続き。
> 銃夢BBS
> Ivanさん
>最近の宮崎アニメは、あの人謎かけはもともとしないけど

僕が俎上にあげてるのはOVAやTVアニメなどのシリーズ物ね。
劇場アニメなどの一話で完結する作品はその一回の中で答えを出さなければならないから(続きに客を引っぱる必要がないから)、「謎をあおっておいて~はずした」という現象自体が起きにくい。
そのため今回の議論ではカテゴリー外。


そこでなぜ連続アニメでシナリオの羊頭狗肉現象が起きるのかについて、また新たな仮説を考えつきました。
連続アニメでは複数のシナリオライターが輪番制でシナリオを書いてますよね。
「今回俺はあおるだけあおって引きを作った。後の始末は頼む!」
という感じで無責任のリレーが起きて、最後のほうで貧乏くじを引いた人が大風呂敷をたたむはめになるんじゃないかなあ。
名付けて「死の無責任リレー仮説」。


> kawamura君
> ゲームは必ず謎→答えの構造を持っているとは「現代的な
> ゲームでは」いえない。

ゲーム製作に直接たずさわっている川村君の意見を聞きたかったのだが、「ゆきと帳」へのレスとしては論点がズレているような。
俺は「ゲームの構造がそもそも「挑戦~報酬」という系で成り立っているので、ゲームにシナリオがついた場合も、それに沿った形になると考えられます。」と書いたが、
ゲームは必ず謎→答えの構造を持っているなどとは言っていない。
たとえとして出している恋愛シュミレーションや「どこでもいっしょ」も
(俺はやったことがないので良く知らないが)「挑戦~報酬」という系で成り立っているのではないのか?
*読んでないなら「ゆきと帳」2007年12月29日の文を読んでレスをつけるように。

> 俺はそもそも推理小説はゲーム目的で書かれた小説だから、
> どちらかというと小説がゲームに歩み寄ったものが推理小説
> だと思う(ゲームブック以前に発明されたゲーム小説)。

面白いこと言うなあ。
ゲーム原理主義者か。
推理小説ファンからの反論が聞いてみたいところだ。
すると生き物が戯れたり遊戯したりスポーツしたりするのはすべてゲームだから、物語の発生より先にゲームがあったと言うことか?
それはそれで考えるに値する面白い着眼点ではあるけれども、今俺が論じている問題とは論点がズレすぎている。

俺が今考察している問題をもう一度整理してみる。
一言で言うと「連続アニメにおけるシナリオの羊頭狗肉問題」で、
「羊の頭だよ~」と偽って犬の肉を売るという、(故意ではないと思いたいが…)
ミートホープや段ボール肉饅にも似た行為がなぜ起きるのか?という点を考察している。
その過程でゲームのシナリオ構造や推理小説を(ポジティブな意味で)引き合いに出したが、ゲームのシナリオ構造を論じることが主題ではないし、ましてや推理小説がゲームシナリオより上だの下だのということを論じることが目的でもない。
論点をよく理解した上で、川村君なりの考えを聞かせてほしい。

2008年01月18日

> kawamura君
> アニメがリニアゆえにシナリオの出来を気にせざるを得ないのに比べて…(以下略)

なるほど、君の言いたいことはわかった。
ただ俺としては、「ゲーム」の定義として最低限「インタラクティヴ性がある」という限定条件をつけたいんだよ。
だからリニア(直線的)である推理小説なんかをゲームブックと一緒くたにするのには抵抗があるんだ。
前に俺が「推理小説はスポーツの域に達している」と書いたことと矛盾するようだけど、あれはフェアプレイ精神という点について言ったんであって、読者の推理が当たろうが外れようが結末は変化しない。
だってそういうふうに「ゲーム」を限定しないと、「生命の営みのほとんどすべてがゲームである」ということになってしまい、
(そういう哲学もあるのかもしれないけど…)
かえって「ゲーム」という言葉の意味が拡散霧消してしまう。

とにかく、君の立場としては「ゲームが推理小説の構造をマネしたわけではなく、構造上の理由から収斂進化して似たものになった」ということでOKかな?


> 名付けて「死の無責任リレー仮説」については、俺前に同じ
> 意味のことを書き込んでると思いますよ。
> エヴァとか、そうでしょう。
> ちなみに俺がバイトで昔やったプレイバイメイルのシナリオ
> もそんな感じでした。

エヴァの話題は地雷なのでスルー。
そうかぁ…俺は集団でお話を作るなんてやったことないから、純粋に想像を膨らませて出した仮説だったんだけど、強力な傍証だね。
「連続アニメのシナリオ羊頭狗肉問題」の制作システム上の仮説としては、「死の無責任リレー仮説」でほぼ説明ができるかな。

最近俺がこの問題でもうひとつ考えることは、日本には「優れた演出家は多いが、言いたいことを持った作家は少ない」んじゃないか、ということだ。
それが謎かけと回答のアンバランスとして現れているような気がする。

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