昇龍の年、1988年〜「飛人」執筆
1988年 9月〜10月
「しゅらの国」第1号を発行し、9月に入ったころ。
9月は年二回ある大きなマンガ新人賞の締め切りの月であり、投稿の季節といえる。
僕が高校生の時に入選した「気怪」もこの季節に描かれた。
「しゅらの国」参加者は一応全員プロマンガ家志望である。
「しゅらの国」連載という負荷をかかえているにもかかわらず、互いのやる気が高まったのか、僕を含め4人の参加者が投稿作品を描くという事態になった。
PEN-OUこと木城ゆきとは角川書店の月刊コミックコンプティーク(現在は廃刊)へ。
木城ツトムは集英社手塚賞へ。
市村君は集英社・月刊スーパージャンプの新人賞へ。
米田氏は小学館新人コミック大賞へ。
それぞれ作品を描いて投稿することになった。
結果を言ってしまえば、僕以外の3名は締め切りまでに投稿作品を完成できず、投稿できずに終わった。
僕も経験があるが、アマチュアは他人の目で審査される作品を描く前に、まず自分との戦いに勝たなければならない。
マンガを描くという作業は本質的に孤独であり、「大舞台に打って出る」と思えば臆病風にも吹かれる。
誰も助けてはくれない。
独りで机に向かうより、友達と集まって好きなマンガやアニメの話をしている方が好き、という人はマンガ家には向かないのだ。
「飛人」の制作は1988年9月7日〜9月19日。
さて、「怪洋星」から半年。
「怪洋星」はこの少し後の10月26日発売のビックコミックスピリッツ増刊号に掲載されることに決まっていたが、僕にはいろいろ不満があった。
「怪洋星」が理解されないことに対する不満はもちろんだが、唯一の理解者のO氏も僕をホラー作家としてとらえてしまい、多様な可能性を見てくれない。
(「怪洋星」しか見てないのだからあたりまえかもしれないが…。)
その上、人事異動により担当がO氏から大学出たての若造に替わってしまい、小学館に描く気が完全に失せた。
そこで、9月6日にふらりと本屋に立ち寄り、そこで見つけた角川書店の月刊漫画誌コミックコンプの新人賞に投稿することにした。
その日、本屋で見つけるまで存在すら知らなかったマイナー誌だが、「しゅらの国」の後輩連中も投稿すると聞いていたので被らなさそうな雑誌にしたのだ。
新人賞の賞金が最高50万円というのも気に入った。
しかし、問題がひとつあった。
コンプの新人賞募集要項をよく読んでみたら、締め切りが9月20日必着、とある。
一般的な新人賞が月末が締め切りなのと比べ、10日も早い。
配達にかかる1日を差し引いて実質9月19日が締め切り。
たったの12日間しかない。
今だったら投稿をあきらめるスケジュールだ。
だがこの年の僕は向かうところ敵なし。
コスモが高まってセブンセンシズに達し、ブロンズ聖衣が一時的にゴールド聖衣になっているような状態だったので、投稿放棄という選択肢ははじめからなかった。
同人誌「ひかりモノ」に寄稿したイラスト。1987年。
こうした状況の中、描いた作品が「飛人」である。
隔離された空中都市から手作り飛行機で逃亡を企てる少年たちと、飛べない天使の少女のストーリー。
これは去年土浦勢の同人誌「ひかりモノ」のために描いた1枚のイラストからイメージをふくらませてできた物語である。
「飛人」はすべての僕の作品の中でも、もっともポジティブな表現とメッセージの作品だ。
自分の中では前衛的な「怪洋星」の方が評価が高いのだが、「飛人」もその次ぐらいの傑作だと思っている。
読んだ人はあまりにも傾向の違う作品に戸惑うかもしれない。
僕とはしては世界に存在する光と闇を両方描くことに意味があるし、そのことが自分の精神のバランスを取ることに役立っている。
ひとつ共通していることは、両作品とも、世間の流行やウケ狙いとはまったく無縁で、自分が本当に描きたいと思ったもの、自分にとって描く必要があったものだけを描いたということだ。
「飛人」のスケッチ。
12日間、ほとんど寝ずに気が狂ったように描き、完成させて19日夕方に地元の郵便局から送った。
30ページの作品をたった独りで、12日間で描いたというのはプロになった今でも破れない記録である。
自分の作品に絶対の自信があった僕は、コミックコンプ新人賞大賞入選50万円獲得まちがいなし、と踏んでいた。
コンプ編集部から入賞内定の電話があったときも、「当然のことだ」ととらえていた。
しかしフタを開けてみると、入選どまりで大賞は該当作品なし。
コミックコンプ編集部は市ヶ谷の貸しビルの一フロアにあって、小学館のような豪華な授賞式はなし。
編集部で編集長、副編集長数人と話をした。
「どんな作品が作りたいですか?」というような質問があったので、僕は「人間ドラマが描きたいです」と答えた。
すると副編集長のひとりが「人間が出てくりゃ、人間ドラマだからなぁ〜」とほざいた。
僕は“違うだろ!!”と内心思ったが、そのときはまだ賞金をもらってなかったので、羊の皮を被ってぐっとこらえ、適当に話を合わせた。
今思い返しても、この副編の認識の甘さ、物語作りをなめた態度には愕然とさせられる。
たとえるならば、一流の料理を目指す新人コックに向かって、材料さえあれば料理はできたも当然、と言っているようなものだ。
料理自体は誰でも作れるが、プロは人様に食わせる料理を作ってお金をいただくのだ。
帰り際に封筒に入った賞金をいただき、(賞金金額を聞かせされてなかったので)駅で中身をあらためた。
確か、17万円だったと思う。
「怪洋星」の賞金も同じぐらいの金額だった。
高校三年の時の「気怪」が30万円。
あれから修業し、「気怪」の何十倍も優れた作品を二つも描いたのに、合計金額が30万円ちょっと。
投稿した賞が違うとはいえ、賞というもののいいかげんさ、むなしさを思い知った。
※「飛人」は木城ゆきと初期作品集「飛人」に収録されています。