昇龍の年、1988年〜地元コミケット開催
1988年 3月〜6月


田園が広がる茨城県下妻市のはずれに住んでいた僕は、人口密度が低い土地柄と、高校になってから越してきたという事情もあって、近所には同年代の友人もいない。
ましてや同好の士などいるはずもなく、いわゆる同人活動とは長らく無縁であった。

しかし高校の美術部時代の後輩たちが高校卒業後に土浦市で同人活動をしているということで、1987年頃からコンタクトがあった。
コンタクトがあった…といっても、下妻市と土浦市は遠い。
ゆうに30kmはあり、電車もない。(正確には下妻駅から取手経由で土浦に行けるが、2時間ぐらいかかる上に電車賃も馬鹿高い。ウワサでは関東鉄道の運賃は日本最高レベルだとか。)
この頃の足は主に原付バイクであり(普通自動車免許は持っていたが、車は家族共用だったのでいつも使えるとは限らなかった)、そう頻繁に行き来できる距離ではなかった。

また、僕は小学館新人賞入賞者であり、昔からプロのマンガ家になることを目的にしていることもあって、趣味のアマチュア活動とは一線を画していた。

そういうわけで、後輩たちに請われて同人誌に簡単な作品を寄稿したりすることはあっても、自分から積極的に同人活動をするというわけでもなかった。

そうした状況の中、投稿用短編「怪洋星」を完成させたばかりの僕は、後輩たちの同人誌に作品を一つ描いた。
同人誌は「戦うcomic」といい、ハードバトルがテーマだという。
そこで僕は、高校生の時に絵コンテだけで日の目を見なかった作品「WAR-MEN」を最新のスタイルで描いてみることにしたのだ。
「WAR-MEN」絵コンテ。アオリまではじめから書いてある。
(「WAR-MEN」はこちらで読むことができます。)
この「戦うcomic」にはツトムも「スーパーΣキラーX」という作品を寄稿している。 

このころ土浦に刃竜剣(ペンネーム)と名乗る男がいた。
自分でマンガを描くわけでもなく、そのくせ「コスモグループ」という変なサークルを作り、土浦周辺のマンガサークルを束ねてなにかしようという野望を持つ男であった。
今でいうプランナー、企画屋といったところであろうか。
この男が土浦の後輩たちを通じて、僕に接近してくるようになった。
僕もコスモグループの会報にイラストを寄稿したりした。
しかし職人の家に生まれた実力主義の僕は、口ばかり達者なこの男を軽く見ていた。

この刃竜剣が現在は有名スタジオの某プロデューサー……とかならかっこいいのだが、今では生きてるのか死んでるのかすら定かではない。ちゃんと定職には就けたのだろうか。

話がそれた。
僕の後輩米田氏、その友人大貫氏と毬野氏(すべてペンネーム、全員女性)たち……僕とツトムは彼女らをまとめて「土浦勢」と呼んでいたが……彼女たちは同人誌を出す、いつかプロになると口ばかり景気がよくてなかなか実行に移さない、そんな有言不実行のメンツであった。
そんな土浦勢と刃竜剣が土浦の会場を借り、地方コミックマーケット…名付けて「米ケット」を開催すると言い出した。
(別に米を売るわけではない。なぜ米にこだわるのかは。米田氏が当時「米米CLUB」のファンだったからかもしれない。)
同人誌ひとつ発行できない連中がそんな大それた事を…と、遠く下妻の地から僕とツトムは最初は冷めた目で見ていた。
ところがあれよという間に借りる会場や開催日が決まり、僕も依頼されてポスターのイラストを描いた。

こうして「1st米ケットin TSUCHIURA」が6月18日に開催された。

(写真をクリックすると拡大します。)

1st米ケットポスター。第二回米ケットが開催されたのかは定かではない。

ツトムもブースを借りて同人誌「地球光」と僕の個人誌「OutRigger」を売った。サークル名「邪悪なツトム・決定稿」と看板は僕が描いたもの。

ブースで売り子をするツトム。まだ高校生。

会場の様子。右下に市村君が見える。

奥の三誌が土浦勢が発行した同人誌。(米ケット後に発行されたものも含む。)僕やツトムが寄稿した作品も載っている。手前の「地球光」は市村君とツトムの同人誌。

当日の会場はなかなかの盛況を見せ、成功に終わった。
(実際のところ、「米ケット」開催にに刃竜剣がどのぐらい重要な役を担ったのかはよく知らない。ずっと奴が中心人物だったのかと思っていたのだが、資料をひっくり返してみたら主催者は大貫氏であった。)

とにかく、僕がプロデビュー活動を開始したとたん、偶然だが地元のマンガ同人活動も活況を呈するようになった。
この偶然の一致にムダに若者の血がたぎり、無謀な同人プロジェクトを始めることとなったのだ。