昇龍の年、1988年〜拳を握りしめ、僕らは出会った!
1988年 4月〜5月ごろ


さて、自己最高傑作と自負する「怪洋星」を小学館・少年サンデー編集部に持ち込んでから少しがたったころ。

自宅に小学館の編集者から電話がかかってきた。
前回持ち込みの時に会った少年サンデーの編集者とは別の人で、「是非一度会いたい」という。
なんでも、「怪洋星」はいつの間にか小学館の青年誌、ビックコミック・スペリオールの新人賞の選考会にかけられ、佳作に内定したという。
待ち合わせの時間と場所を決め、僕は再び上京することになった。

当時21歳になったばかりの僕は若く覇気と野心に満ち、自惚れと社会に対する怒りを内に秘めて殺気立っていた。
自分の志望と違う青年誌の、新人賞選考に知らぬ間にかけられたあげく、結果が「佳作」であるという報に、僕は怒りに震えた。

あの最高傑作が「佳作」だと!?
目玉の腐りきった審査員どもがッ!!

電車で東京に向かう道すがら、僕は拳を固く握りしめた。

決闘だ!!
これは編集者との、命のやりとりだ!!
能なし編集者め…うかつなことを口にしてみろ。
殴ってやる!!
顔面に正拳逆突きをぶち込んでやる!!

僕はひとりエキサイトしつつ、待ち合わせ場所である神保町の小学館地下の喫茶店に向かった。

そこで僕を迎えたのは、当時ビックコミック・スペリオールの編集者だったO氏。
O氏はいきなり満面の笑みで、「怪洋星」を褒め称えた!

傷害事件を起こす覚悟で打ち合わせに臨んだ僕は、まったく予想外の展開に面食らった。

O氏は、「これは本来作家に見せるものじゃないんだけれども…」と言って、新人賞選考の内部資料を見せてくれた。
それは候補作を回し読みした編集者たちが簡単な感想を書く紙で、6人ほどの編集者の名前とコメントが添えられていた。
O氏以外の編集者はひどい評価で、「ほとんどキチガイ」などとひどい言葉が並んでいた。
(ちなみに「キチガイ」という言葉は出版コードに抵触するため、マンガなどに使うことはできない。そんな言葉を内輪では平気で使うのだから、編集者の倫理観などはたかがしれている。)
そんな中、O氏のコメント欄には「押す!押す!押す!」という言葉があった。
「怪洋星」に拒絶反応を示す編集者が大勢の中、O氏だけが理解を示し、強力にプッシュした結果、「佳作」に入ったということらしい。

感激した僕は、O氏とSFやオカルト、ユング心理学や澁澤龍彦などのディープな話題を堪能した。
家族以外でこうしたマニアックな話ができる人間と会ったのは初めてだったので、僕はO氏に敬服した。


このときO氏は「ラヴクラフトのクトゥルー神話とか好きなの?」と聞いてきた。
僕は質問の趣旨がよく理解できないまま、「子供のころ『ダンウィッチの怪』とか読みましたが、面白いと思わなかったのでそのほかは知りません」と正直に答えた。
長いことO氏がなんでこんな質問をしたのか引っかかっていたのだが、ずっと後の1995年に「魔道書ネクロノミコン」(コリン・ウィルソン他著)という本を読んでその謎が解けた。
要するにラヴクラフトの小説に出てくる魔物や怪物も、人間の深層心理の奥底にある恐怖を具現化したもので、そのテーマの着眼点や構造が「怪洋星」とよく似ているのだ。
僕は知らなかったが、クトゥルー神話にはそのまんま海の魔物とかが出てくる話もあるらしい。
当時の僕は「怪洋星」で「誰も描いたことのないスタイルの物語を書いた!」と自惚れていたが、実際には70年も前に同じ着眼点の作品が描かれていたのだ。


その後、ビックコミック新人賞の授賞式が開かれた。時期は記憶があやふやではっきりしないが、夏前だったと思う。

僕は開催会場の場所がわからなくて、遅刻して出席。
エレベーターでO氏、編集長と乗りあわせたとき、O氏が僕を編集長に紹介して、「彼が木城君です…普通の人でしょ?」と笑う。
編集長の言によれば、「怪洋星」の印象から、作者も気が触れたようなコワイ人間ではないかと想像して、恐れていたという。
失礼な話である。

授賞式は華やかなホテルでの立食パーティーで、飲めもしないのに僕は酒類に手を出して少し酔ってしまった。
受賞者にスピーチが求められ、僕もたくさんの人の前で話す羽目になってしまった。
「佳作という評価は不満です…いずれ世界一になります!!
酔いと若気の至りから、そんな内容のことを僕は吠えた。
「いいぞぉ!!」ほろ酔い気味の編集長がヤジを飛ばした。