目標1000p!!〜野望の実現へ向けて
〜1982年

この年の春に我が木城家は住み慣れた千葉県から茨城県に引っ越した。
それまでの借家住まいから、一戸建てのマイホームである。周りは見渡す限りの田んぼだが、筑波山がよく見え、夏の夜には無数の蛍が舞う。(現在は残念ながら蛍は見られなくなってしまった。)
引っ越しは僕の中学卒業と同時に行われ、筑波山の麓にある筑波高校に入学した僕は、心機一転して希望に満ちあふれていた。
親の教育方針により、職業訓練校に行かされそうになっていたため(決して素行不良や成績不振のためではない)、普通高校に入れただけでもうれしかったのだ。
幼少期から長男として親父のタイル屋を継ぐことを期待され、また僕も純粋に憧れてタイル屋になることを公言していたが、この頃から胸の内にひそかなる野望が芽生え始めていた。
ひとつには、親の言いなり、親の七光りに甘んじて職を選ぶことが我慢ならなくなってきていたこと。
もうひとつには、タイル屋という技能職では、僕の内から沸き上がる創作意欲を満足させられないという思いが強まってきていたことがある。
この時点で、僕の「創作意欲を満足させる」職業の選択候補は3つあった。
一つ目は、スターウォーズ以来憧れていた映画監督である。
だが国内SF映画の惨憺たる状況を子供なりに見て失望していたし、家に8ミリカメラもなければビデオカメラもなく、どういう訓練を積めばいいのかもわからなければ同好の士もいない。ないないづくしで、お手上げである。
実現可能性は一番低かった。
二つ目は、中学の頃から凝っていたプラモデル作りである。
ひとつの完結したミニチュア空間を作り上げられるという大きな魅力がある。だが大きな問題は、当時プロモデラーとして食べていけるのはホビージャパン誌に載るようなほんのわずかな人達だけであるという事実だった。
現在では模型誌も数多く、フイギュアの原型師という職業もあるが、当時はガレージキットの国内市場も存在しておらず、とうてい自分が食い込めそうになかった。
また、模型では能動的にストーリーを語ることができないという点も物足りなかった。
三つ目が、漫画家である。
ストーリー漫画の形式は映画に一番近く、しかも映画と違ってお金はかからず、完全に自分一人の力だけで作ることができる。新人賞制度などでデビューの方法がわかりやすいのも大きかった。
なによりも、物心ついた時から漫画に親しみ、描いてきたものだ。
(なぜか、漫画よりも映画により近い表現形式「アニメ」の道に進むという考えはまったく浮かばなかった。ガンダム以来のリアルロボットブームのただ中だったとはいえ、自由に作品が作れるメディアではないと思ったからなのか。まだOVAという形式ができる前のことである。)
この年の小学館新人賞に17才(記憶違いでなければ)の人が入選を果たしたのを見て、激しく燃えた。
そんな中、小学館「サンデー漫画カレッジ」という本に出会う。
内容は、当時の少年サンデーの現役漫画家に取材しながら漫画の基礎技法などを紹介した技法書だが、この中の一文にこうあった。
「だれでも1000枚の絵をかけばプロになれると断言してもいい。いいかえれば1000枚の絵をかくだけの根気があるかないかだ。」
この言葉に、発奮した。
「一日一枚描けば、3年で1000枚ぐらいいく。それでプロになれるのなら軽いもんだ!!
ここで問題になるのは「一枚」の数え方である。
落書きひとつや、鉛筆書きの下描きひとつを「一枚」と数えていては簡単すぎる。
というのも、ノートやルーズリーフにボールペンで描きなぐった漫画をぜんぶ勘定に入れてしまうと、その時点ですでに軽く1000ページを超えていたからだ。それにもかかわらず、人に見せられるだけの実力がないのは自分が一番知っている…。
そこで、B4投稿サイズ原稿にペン入れ、仕上げまでした完成原稿だけを「一枚」とカウントすることにした。
この決意を忘れぬように、紙切れに「目標1000p!!」 と書いて机の前に張った。
そして、高校卒業までに新人賞に投稿し、入賞することをひそかに誓った。
具体的な結果を出すことでしか、親を説得することはできないと思ったからだ。
もし卒業までに入選に至らなかったら、自分に才能がなかったとあきらめて、親の言う通りにタイル屋にでも何でもなろうと思った。
この時から、僕にとって「漫画を描く」ということは趣味ではなく、現実の闘争となったのだ。