ガンダムも来た!!(その1)
〜ボーイ・ミーツ・ガンダム〜
1979〜1980年

1979年の4月には僕も中学生になった。
もはやガキっぽいロボットアニメなど観るのも気恥ずかしくなる年ごろである。
ところがこの年の秋、偶然観たロボットアニメにただならぬものを感じた。
それが「機動戦士ガンダム」であった。
この作品が後に一世を風靡することになるなど、この時点では知るよしもない。
たしかガンダムが大気圏に突入後の自由落下しながらの戦闘の回が初見だったと思う。「自由落下というのは口で言うほど自由ではないのだよ!」というシャアのセリフがある回だ。
自在に空を飛ぶことができないロボットが落下しながら戦うというのが斬新だった。ザクのデザインに強く魅かれた。
なによりも「モビルスーツ」という名称。これはまさにハインラインのパワードスーツへのオマージュだということはすぐにわかった。
話は前後するが、ガンダムの放映にさかのぼること1年前、僕はスタジオぬえ編著「SFワンダーランド」という本に出会った。
当時A6版(縦13センチ弱、横9センチ)の豆本と呼ばれる小型の本が流行っていて、広済堂という出版社の「豆たぬきの本」というシリーズの一冊だった。

「SFワンダーランド」は主に海外のSF小説中のさまざまなアイディアやガジェットにスタジオぬえ所属のイラストレーターが挿し絵をつける(あるいはすでに早川などで出版されている小説の挿し絵を引用する)形で紹介する、いわばSFの入門書であった。
これにR.A.ハインラインの「宇宙の戦士」に登場するパワードスーツの宮武一貴先生のイラストが載っていた。
このアイディアとデザインの虜になった僕は、小学六年の間中、自由帳に宮武一貴風パワードスーツのバリエーションばっかり描きまくっていた。
話は戻る。
小学六年にしてすでに立派なパワードスーツマニアだった僕がガンダムに魅かれたのも当然といえるだろう。
しかしガンダムを視聴するにはいろいろと困難がついてまわった。
「オタク市場」を政府が積極推進するようになってしまった21世紀の現在からは想像つかないかもしれないが、この当時、子供から大人になろうという少年にとって、ロボットアニメを観ているところを親に見られるほど恥ずかしいことはなかった のだ。
わが家にはTVが居間に一台しかなく、ビデオデッキなどという気の利いた物もなかった。
ゆえに、親がいない時を見計らって、こそこそと(そしてドキドキしながら)毎回TVの前で観た。
観ている最中に親が帰ってきてしまった時などは、皮肉を言われるのを覚悟して最後まで観た。
セイラさんの入浴シーンがある回に来客があった時は天を呪った。
そういうわけで初回放送は観ることができなかった回もけっこうあったわけだが、最終回はちゃんと観た。
あまりに感動して、「ガンダムをこんなに熱心に観ているのは世界中で俺一人だろう」 と思い、永遠に記憶にとどめておこうと思って、新聞夕刊の番組欄の「機動戦士ガンダム(完)」と印刷されているところを切り抜いてスクラップした。

放送終了後、本屋を散策していて、表紙にアムロとシャアが使われている雑誌があってびっくりして手に取った。
アニメージュだった。アニメ雑誌というものの存在を初めて知った。
ガンダムの最終回特集と富野監督のインタビューが載っていた。
ガンダムを評価している人が他にもいることを知って、嬉しく思った。
富野監督は「ガンダムの続編は作らない」 と明言していた。当時、宇宙戦艦ヤマトの死んでも死んでもよみがえって続編を作るその商売っ気に嫌気がさしていた元ヤマトファンの僕は、富野監督のその言葉に心酔した。
むろん、その後25年以上にもわたって続編が作られ続けることなどこの時点では知るよしもない。
僕の心のガンダムファンの部分はいまだにこの80年当時のままなので、その後の続編はいっさい観てないし認めていない。
なぜならーーーー大げさに聞こえるかもしれないが、この当時12歳の僕は、本当にアムロたちと共に1年戦争を戦ったのだ。
だから最後に戦争が終わった時、本当に祝福した。これで平和が来たのだと思った。
それがスポンサーの都合により戦争再開だとうっ!?
断じて認めねえ。
というのが僕のスタンス。