水面の白い手


漫画家・バディプロダクション所属
「i」さん(男性)香川県出身

 この話は、祖母と僕とお化けの思い出ばなしだ。

 その夏、僕は9歳だった。
 僕の家の周りには、多くのため池があって、子供達の恰好の遊び場だった。蜻蛉釣り、石投げ、沼エビ捕り、水浴び、日暮れまで笑えることは何でもやった。
 そんな僕たちを見て祖母はいつもこんなことを言って水をさした。
 水は危ない、池の底には恐ろしいお化けがいて、池に近づく者の足を掴んで引きずり込み、殺してしまうと。
 友達のやっちゃんはそれを聞いて、ちょっとビビッていたけれど、僕は平気だった。それはきっと、大人のよく使う「思いやりのウソ」に違いないと思ったからだ。僕が水に溺れやしないかと心配してついてるウソなのだ。
 僕は、ちょっといやらしい子供だった。

 その年の冬、ため池は全面凍結していた。
 学校の帰り、やっちゃんと石を投げて池の氷を割って遊んでいた。
 池にはいろんな形の氷の裂け目が出来ていた。すぐ横にコールタールまみれの木製の電柱が立っていて、その根本に水色のゴム草履があることに僕は気付いた。
 それは池に向かって行儀良くそろえて置いてあった。
 その時、やっちゃんが、池の氷の裂け目を指さして叫んだので、何事かと見てみると、何か黒い塊が小さい波紋をつくって浮いていた。
 最初は黒い肥料袋だと思ったけど、よく見るとそれは、人だった。

 僕はその時初めて、死体というものを見た。
 それは、筵の上に寝かされていて、羽織の袖からとても白い手が見えていた。
 知らないお婆さんだった。
 周りには人垣ができていて、やっちゃんは警察に事情聴取されていた。僕は何か夢中で、その白いお婆さんを覗き込んでいた。
 何か言いたそうな顔に見えた。
 誰かに首根っこを掴まれて振り向くと祖母が立っていて、ブツブツ手を合わせて拝んでいた。そして、「行くところが無かったんやなぁ」と呟いたのが聞こえた。

 そんな事があったもんだから、よけいに祖母の「思いやりのウソ」が激しさを増して、僕がため池で遊んでるのを見ると、鎌を振り回して、「オバケが出るぞッ引きずり込まれるぞッ」と叫んでいたが、僕はやっぱり、平気だった。

 そして10歳の冬。
 その年もため池は全面凍結していた。
 学校の帰り道はもう火灯し頃になっていて、空を行く白鷺が黒く見えていた。
 ため池の近くを通りかかった時、何か聞こえたような気がして辺りを見回すと、芦原の向こうで黒い影が揺れているのが見えた。
 ピュンピュンと風を切る音と、ピシャピシャと水を打つような音がしていた。
 僕は芦原に入っていった。芦原の奥はため池だ。
黒い影の中に黄色い帽子とランドセルが見えた、そいつは何かムチのようなもので激しく水面を叩いていたが、急に振り返ってこっちに向かって走ってきた。そいつは僕とぶつかって転び、激しく芦が折れる音がして、僕も尻餅をついた。

 そいつは、やっちゃんだった。
 はぁはぁ言って、見たことがない複雑な顔をしていた。手にはバカボンの絵がプリントされたベルトを握っている。いつもやっちゃんが半ズボンに通してるやつだ。

「どうしたん?」ぼくが聞くと、
「し…、しろい、白い手が池の中から出てきた…あの…ばあちゃんや…」

 そう歯の間から言って、すごい勢いで芦原の奥に消えてしまった。
 それは一秒か二秒後か、目の隅っこで、白いものが動いた気がした。でも、僕はそっちを見られなかった。
 すごく重い恐怖に絡みつかれていて、うまく走れなかったけど、もう転げるようにして芦原を抜けた。振り返らず一生懸命走った。
 僕の頭の中は、あの時見たお婆さんの白い手でいっぱいだった。

 畑に祖母が見えた。
「なんや、どした?」
 息を切らせて祖母の足下で、僕は落ち着き無くしきりにキョロキョロしたり、畑の土を意味もなく掘ったりしていた。

「ばあちゃん、お化けってほんまにおるん?」
「見たんか?」
「…わからん」

 僕の様子を暫く見ていた祖母は、手拭いで顔を拭いてから、畦に腰を下ろした。そしてゆっくり話し始めた。

 それは戦時中、祖母がまだ若かった頃の話。
 ある夜、近所の人が土間に飛び込んできて、娘を捜してくれと言った。
 事情を聞くと、その娘さんの弟さんが戦死したという知らせが届き、泣いて家を飛び出したきり、行方知れずになった。
 その娘さんは、祖母の同級生だった。
 祖母は、その村に一台しかなかった自転車を頭を下げて借り、田舎の深い夜の中を探して走った。山を登り、川を下り、心当たりの所を必死に探した。祖母は、同級生のことを自分のことのように気の毒に思っていた。

 実は、祖母の弟も出征していた。
 戦場に行ったはずの弟はよく祖母の枕元に現れて、泣きながら深く頭を垂れていた。枕元の弟に何故泣くのかと聞いても、ただ泣き続けるだけだった。
 その時祖母は、弟の死を悟ったそうだ。

 丑三つ時、ある下り坂にさしかかった時、すぐ横にため池が見えた。月明かりの無い夜のため池は、大きな穴に見えたそうだ。
 祖母がその池の土手で自転車を止めたのは、何かの気配がしたからだった。同級生の名を呼んでみた…が返事は無い。
 気のせいかと、ペダルに足をかけたとき、背中の方から人の気配がして、自転車が引っ張られるのを感じた。祖母は振り返って見たが、誰もいない。
 
と、また自転車がズルッと引かれた、ため池の方向に引っ張られていた。慌てて自転車を降りようとしたとき、自転車の荷台に、何かがへばり付いてるのが見えた。

 白い手だった。

 荷台に絡みついた白い手はズルズルと祖母を自転車ごと池の方へ引いていく。慌てて自転車から逃げたが、そのまま腰が抜けてしまった。白い手は、自転車を土手の所まで引きずるとそこに残し、黒い水面に静かに消えていった。

 その時、土手に人の影が現れた。探していた娘さんがそこに立っていたのだ。
 弟さんの後を追って、池に飛び込むつもりでいたそうだ。

「その、白い手って誰なん?」
「さてなぁ」
「なんで、池から出て来るん?」
「…さてなァ…この辺じゃ、ため池が三途の川みたいなもんかも知れん…」
「…サンズ?」
「ええか、子供はそんな所に近づいちゃァいかん、気ィ付けろやァ」

 夜になって風呂に入ると体中がピリピリした、傷だらけだった。
 夢中で逃げたときつけた傷らしい。
 やっちゃんは、ほんとに白い手を見たんだろうか?
 やっちゃんに有線電話をして詳しく話を聞いた。

 去年と同じように石を投げて氷を割って遊んでいたら、氷の裂け目から白い手がニュッと伸びてきて足を掴まれそうになったので、必死にバカボンのベルトで応戦したらしい。
 …すごい勇気だ。
 僕は逃げるので精一杯だった。おまけにその夜は一人で寝られず、祖母と同じ布団で寝た。

 祖母は去年逝ってしまったが、ため池の土手を歩いていると、「お化けが出るぞッ」って祖母の声が聞こえるような気がする。

※本コーナーに登場する人物名は、すべて仮名です。
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