父曰く「絵描きにはなるな」
〜1968年ごろ
さて、僕が生まれて一年がたとうかというころ、両親は店をたたんで夜逃げし、千葉県柏市のはずれ逆井に引っ越した。ブタコレラが流行ったとかで、肉屋をやっていけなくなったということだ。
したがって、僕は東京時代の記憶は全然ない。
今でこそ押しも押されぬ新興住宅地の逆井だが、当時は人家も街灯もほとんどなく、東京育ちの両親は「本当にこんなところで生きていけるのか」と不安になったという。
内向的な幼児であった僕は、まだ言葉もしゃべれないうちから、なにか描く物と紙さえあればいつまでも静かに、わけのわからないものを描き続けていたそうだ。
家計を支えるため、母は傘やボールペンの組み立ての内職をしていた。
そのため、家にはボールペンが山ほどあった。そしてカレンダーやチラシの裏が幼児の僕のキャンパスだった。
かなり後になって、幼児のころの、あの絵を描こうとする衝動を振り返って分析してみたことがある。
人に命令されるわけでもなく、見栄も虚栄もなく、世の中の物もほとんど何も知らないのに、いったいなぜ、何を描こうとしていたのであろうか。
幼児の僕が何を考えていたのかは知る由もないが、ただ一つ憶えているのは、真っ白な紙を前にしたときのワクワクするような期待感、そこに一本の線を引いたときの征服感にも似た満足感だ。
思うに、絵を描くという行為は、踊りなどと同じく、人間のもっとも原初的、本能的な行動のひとつなのではないかと思う。それは、「これは俺のものだ、俺のなわばりだぞ」という、犬のマーキング行動(オシッコかけ)のようなものから派生したものなのかもしれない。
そしてものを考える人間は、「俺はここにいるんだ。ここに生きたんだ」というあかしを、絵を描くという行為に求めるようになるのかもしれない。
幼稚園ぐらいになり、死についてさかんに考えた。
「今自分が死んでしまったら、この木城ゆきとという人間が生きていたというしるしが何か残るだろうか」と。
「愛用のオモチャも同じ物はどこにでもある。しかし、自分が描いた絵はこの世に二枚はない。絵は残る」と考えた。
しかし、線がぐしゃぐしゃしたわけのわからん絵では、自分は満足でも他人に理解されず、捨て去られてしまうかもしれない。自分が満足するだけではなく、他人にも価値がある絵を描かなければならない。
本当にすばらしい絵を描けば、それは永遠に残るかもしれない。
はっきりとこう言葉で考えたわけではないが、だいたい無意識のうちにこのような考えに達し、具象的な絵を追及するようになったのは確かである。
幸いなことは、両親とも僕の絵描き衝動に干渉せず、放任しておいてくれたことだ。
「一芸に秀でる」、「手に職を持つ」ということが両親の価値観に合っていたのだろう。
しかし、僕の将来が不安ではあったようで、ことあるごとに「絵描きにはなるな」と口癖のように言っていた。理由は「飯が食えないから」。「死んでから有名になってもなんにもならん」とも言っていた。
かなり古めかしい芸術家像である。