文・構成 木城ツトム
■ 第 2 章 キリストの墓 編 ■

(青森県三戸郡新郷村大字戸来)

衝撃の霊地訪問から一夜明けた7月19日。相変わらずの曇天の朝、さっそく例の忌まわしいメールが届いた。

ツトム君の7月19日の運勢です。
◇全体運◇
本業より趣味を優先させると閃きが
あるであろう。同好の士を集めるべし。

◇本日の霊視◇
疾走する風景」
全体運:★★★★★
恋愛運:★★★★★

まぁこの3日間では一番マトモな運勢だが、この占いでマトモな結果が出ても逆に怖い。お告げ通り、趣味で同好の士と疾走している最中だからして。


緑に囲まれた新郷村

さて私(木城ツトム)は霊地・恐山の他に、どうしても見ておきたい場所があった。それは、同じ青森県の新郷村というところにあるオカルト史跡、「キリストの墓」である。


八戸市から西へ約40km、十和田湖へ至る国道の途中に新郷村という村がある。旧名を戸来(ヘライ)村という。この地にかのイエス・キリストがやってきて、106歳の天寿を全うしたという伝説があり、「キリストの墓」があるのだという。


ことの起こりは昭和10年、茨城県北茨城市の神官・竹内巨麿(たけうちきょまろ、1875-1965)が戸来村に現れたことに始まる。この竹内巨麿なる人物は、日本最古の史書「古事記」(712)に登場する武内宿禰(たけうちのすくね)の末裔と称する人で、竹内家に代々伝わる超古代史書『竹内文献』に問題の記述を見つけたのである。

いわく、イエスは21歳から33歳まで世界を放浪し(この11年間の記述は聖書にはない)、日本にも訪れた。日本は第11代垂仁天皇(紀元前69-後70)の時代で、越中の国にて日本の言葉や文字を習い修業にはげんだ。

ユダヤの地に戻ったイエスは、人々に日本のことを話してまわったものの受け入れられず、聖書にあるようにゴルゴダの丘で磔(はりつけ)となった。しかしこの時十字架に架けられたのはイエスの弟イスキリ(聖書には登場しない)であった。

追求を逃れたイエスは弟子と共にシベリアへ向かい、さらには舟でアラスカ(!)へ渡り、4年目にしてついに現在の青森県八戸港にたどり着く。再来日を果たしたイエスは「十来太郎大天空」と名乗り、戸来村にてユミ子なる女性をめとって3人の娘をもうけたという。



新郷村
ミステリー観光案内

整備された真新しい歩道を
登っていくと…

「キリストの墓」についての
解説が(英文つき)

キリストの墓
(とバチ当たり)

この村には以前から出自不明の土まんじゅうが2つあり、地主である沢口家が「殿様の墓所」と言われて守り継いできたという。竹内巨麿はこの土盛りを見てキリストの墓、および弟イスキリと母マリアの分骨が眠る墓と断定したのである。


墓の前にはなぜか
お賽銭が

「キリストの墓」を
詠んだ詩の石碑

近代的設備が光る
「キリストの里伝承館」

キリストとこの村を関連づけるのは、出自不明の2つの土盛りだけではない。以下に関連性を挙げてみると…。

●戸来(ヘライ)という名はヘブライに通じる。
●この地では父を「アヤ」母を「アバ」と呼ぶ。アダムとエバ(イブ)に通じる。
●赤子を初めて外に出す時、ひたいに墨で十字を書き入れる。
●赤子が生まれた時に入れるカゴは、ユダヤ人が使うものと酷似している。
●足がしびれた時、ツバでひたいに十字を3回書く。
●「ニャナドヤラ」という地元民でも意味不明の盆踊り唄が伝わる。神学博士の川守田英二はこれをヘブライ語で解釈し、その意味は「お前の聖名をほめ讃えん」であるという。


昭和10年頃の
戸来の民家

赤ん坊のひたいに
十字を書く風習

伝承館では映像も
もりだくさん

以上が「キリストの墓」伝説の概要だが、オカルト好きの方ならお気づきのように『竹内文献』と言えば「偽書」「異端史書」の代表格である。当然この「キリストの墓」伝説も無邪気に信じるわけにはいかない。しかし村にはすでにしっかりと「伝説」が根付いており、村人達によって育まれていることを実感する。信じようと信じまいと、歴史がミステリーであることはいつの時代も変わりはない。そしてそれを守る人々がいる限り、よそ者はそれを温かく見守るべきなのだろう。

[前のページへ] [恐山ツアートップへ] [次のページへ]