[ 2004 夏休みホラースペシャル ]

 戦慄!千葉県怪奇心霊スポット
〜 前 編 〜

怪奇ナビゲーター:ツトム@管理人(千葉県流山市在住)


本企画で紹介している場所において、付近住民の迷惑になるような行為は慎むようお願いいたします。
[ 怪奇心霊スポットマップ ]




スポット3:激震!江戸川心霊地帯

えどがわしんれいちたい 〜 江戸川



金野井大橋の女幽霊(野田市)

→ 1975年の夏、千葉県野田市から江戸川を渡る金野井大橋(国道16号線)で、夜中に下着姿で現れてはこつ然と消える若い女の姿が頻繁に目撃された。あるドライバーが柏警察署に通報、柏署からの要請を受けた野田署署員が捜査する騒ぎとなった。地元紙・千葉日報がこれを伝え、話は全国に広まった。

→ 話によると、金野井大橋が出来る前は墓地だったと言われ、捜査に駆けつけた野田署の署員は、橋の下で二本の卒塔婆を見つけたという。

→ このほか、江戸川にかかる橋では流山市の流山橋でも幽霊目撃があるという。







怪獣マツドドン(松戸市)

→ 1972年10月12日、千葉県松戸市を流れる江戸川の古ヶ崎水門付近で、釣り人が謎の怪物を目撃した。体長約2メートル、頭が丸く、目がギョロリとしてて赤ら顔、ヒゲを生やし、体の表面はヌメッとしていたという。さらに「二足歩行をした」「ギャオン、ギャオンと鳴いた」「猫のような声だった」「木に登った」「亀のような姿をしていた」など諸説紛々。

→ この目撃談に対し、当時の松戸市長・松本清(ドラッグストアー・マツモトキヨシ創業者)氏によって市役所内に設立された「すぐやる課」が「松戸に現れてトドに似ているので"マツドドン"とでも言いますか」などとコメント。安易に命名される。

→ マツドドンの正体を大型のげっ歯類マスクラットと断定している話もあるが、それは都立水元公園(江戸川に近い東京都葛飾区の公園)で目撃された謎の生物「ミッシー」との混同である。

→ さらに江戸川には、体長2メートルを超える怪魚「エディー」が出現するとも言われている。









スポット4:絶叫!佐倉城址公園

さくらじょうしこうえん 〜 千葉県佐倉市



現在、国立歴史博物館が建つ敷地は、かつての佐倉城の跡地であり、
また明治期に城跡は破壊され、第二次大戦中には練兵場と兵舎が建てられた。
園内には子守りの老婆が身を投げたという、伝説の「姥ヶ池」がある。
池からは、夜な夜な老婆のすすり泣く声が聞こえてくるという。



→ かつての城跡であり、現在は公園として整備されている佐倉城址公園。敷地はかなり広く、うっそうとした木々に覆われ、道はアップダウンが激しい。朝早くにに訪れたのだが、園内の歩道でウォーキングする人たちの姿が多く見られた。園内に残っているのは本当に「跡」だけで、建物のようなものはほとんどない。基礎石や石碑がわずかに残るばかりである。

→ 実はこの場所も、佐倉市の市役所のすぐ裏手にある。怪奇スポットは意外にも、市役所のような街の中心地に多いことがわかった。その街の歴史的中心地であることも関係しているのだろう。

→ ここで有名なのが「十三階段」と呼ばれる、コンクリート製の階段である。広場にいきなり階段だけ建ててあり、用途がいまいち不明であることから「処刑台だった」との噂が立った。「十三階段」とは名ばかりで、実際には十二段しかない(怪奇物件にはよくあるパターンである)。話によると、軍の高官が訓示をたれるための朝礼台のようなもので、これ自体は少しも怪奇な遺物ではないという。

→ では、怪奇な話がまったくないのかというとそうではない。園内にある「姥ヶ池」という小さな池が、園内の本当の怪奇スポットなのだという。伝説には、家老の幼い娘を、お守役の姥があやまって池に落として死なせてしまい、窮した姥も池に身を投じて後を追った。以来この池は「姥ヶ池」の名で呼ばれるようになった。

→ 夜になると、この池から老婆のすすり泣きが聞こえる。またここでは事故で落ちて亡くなった者、入水自殺者も出たとされており、そのことから幽霊目撃も後を絶たない。それ以外にも、園内では兵隊姿の幽霊がしばしば目撃されるという。












番外編:復讐!佐倉宗吾

さくらそうご 〜 千葉県成田市



下総国佐倉藩高津村の名主・木内宗五郎(佐倉宗吾)は、飢饉であえぐ
村を救うため、命をかけて将軍直訴に踏み切りこれを成功させた。
村は救われたが、領主によって宗五郎は磔刑に処されてしまう。
憤死を遂げた宗五郎の怨霊が、佐倉藩役人たちに襲いかかる。


→ 「怪奇スポット」などと一緒にしてしまうと失礼に当たるが、佐倉城址公園の近くに義人・佐倉宗吾の霊堂(宗吾霊堂)があるというので足を運んでみた。今も伝えられる義人の物語は、また壮絶な怨霊の復讐譚でもある。

→ その当時、佐倉藩の人々は大変な飢饉に苦しみ、なおかつ増える年貢の取り立てにあえいでいた。年貢を滞納した農家は厳しく罰せられた。不足分を名主たちがいくら埋め合わせても、まだ足りないような状況だった。

→ そこで高津村の木内宗五郎を中心に名主たちが結束、藩に上訴したものの、領主・堀田正信に届く前に役人に握りつぶされてしまった。残る道は一揆しかないと思い詰める中、宗五郎は最後の手段として、将軍家直訴を決意する。

→ しかし将軍家への直訴は死罪である。名主たちは宗五郎に協力を申し出るが、密かにことを進めなければ成功しないとして宗五郎は申し出を断り、まずは自分の家に戻った。宗五郎は妻のおさんにわけを話して離縁を促したが、おさんは離縁状に火をつけて燃やし、4人の子供たちだけを離縁させた。一緒に死罪にさせないための別れであった。

→ 承応元年(1652)12月20日、寛永寺に墓参中の4代将軍・徳川家綱に対して宗五郎は見事直訴を果たし、家綱は佐倉藩への3年の年貢減免を決定した。これにより佐倉藩領民は危機を脱したのである。しかし、面目をつぶされた領主の堀田正信が宗五郎を見逃すはずはなかった。






→ 堀田正信は宗五郎を捕らえて拷問したうえ、宗五郎の目の前で、妻のおせんと4人の子供を次々と斬首。宗五郎は磔にかけられたまま憤死する。

→ その後、夜になると磔のまま宙を舞う宗五郎の姿が目撃されるようになった。やがて、領民を悪政で苦しめた佐倉藩役人たちが次々と怪死を遂げ、わずか40日で全員死亡。堀田正信も血まみれの宗五郎を見て乱心、側近や腰元を次々と惨殺する。正信の妻も病に倒れ、最後には正信自身も錯乱死。堀田家は改易となった。

→ 佐倉の領民たちは宗五郎の霊堂(現千葉県成田市の東勝寺)を建て、義人の霊を手厚く奉ったという。






(次回後編につづく)
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