
多彩な霊現象
「ポルターガイスト」とは「騒々しい幽霊」という意味をなすドイツ語で、その言葉が示す霊現象は実に多種多彩である。
音を発する(ラップ現象)、声を発する、物を動かす(または破壊する)、家具や衣類に火をつける、悪臭を発生させる、液体を滴らせる(水やインク、血液など)、また壁に文字を浮かび上がらせることもある。
多くの場合、現象の中心には思春期の少年少女がいるのが特徴で、鬱屈した精神的エネルギーがその原因となるという解釈がなされるが、当然はっきりしたことはわかっていない。
およそ文明が始まった当初から、人々はそういった「霊現象」に遭遇してきた。記録をさかのぼれば紀元前にも「ポルターガイスト現象」の記述があるとされているが、ここではいくつか信頼できる記録をたどっていくことにしよう。
テッドワースの「幽霊ドラマー」
1661年3月、イギリスのテッドワースで地方判事をしていたジョン・モンペッソンは、浮浪者のウィリアム・ドゥルーリーという男を逮捕した。ドゥルーリーは道路を歩き回りながらドラムを叩いて、人々の注目を集めようとしていた(今で言えば暴走族のような行為か?)。モンペッソンはドゥルーリーを留置場に放り込み、ドラムを取り上げて自宅に持ち帰った。しかしドゥルーリーは脱獄し、行方をくらませた。
それから2年間にわたり、モンペッソンの邸宅ではドラムの轟音に悩まされ続けることになる。さらにドアが閉まる音、ゼイゼイと言った息切れの声、物を引っかく音、動物の鳴き声や叫び声などが邸内にこだました。さらに灰や排泄物が部屋にまき散らされ、子供が空中に浮かぶなどの怪現象が続いた。
後にこの事件の記録を残したジョセフ・グランヴィル師が調査に乗り込んだが、家具やイスがひとりでに動くところをたびたび目撃する。師はドラムの音が二人の少女(7歳と11歳)の寝室から出ていることを突き止めたが、少女たちが音を出している気配はなく、原因は突き止められないまま、ある日ぱったりと怪現象は止んだのだった。
ベル家の「殺人幽霊」
「アメリカ最悪の幽霊事件」とまで言われたこの事件は、1817年に始まる。舞台はテネシー州ロバートソン郡で農夫をしていたジョン・ベル一家の屋敷で、窓を引っかく音や叩く音、また石が飛んだり家具が動いたりし始めたのだ。
ベル家には9人の子供がいたが、息子リチャードの髪が何者かに引っ張られたりもした。だが「霊」の標的は明らかに当時12歳の少女ベッツィ・ベルだった。
「霊」はベッツィの頬を腫れ上がるまで叩き、髪をつかんで引きずりまわしたあげく床に叩き付けた。そのうちに「霊」はしゃべるようになった。自らを「インディアン」と名乗ったかと思うと、次に「魔女ケイト・バット」と名乗り始めた。次第にうるさくわめくようになり、卑猥な言葉も叫ぶようになった。
「次は父親のジョンの番だ。死ぬまで苦しめてやる」と「魔女」は宣言すると、ジョンのあごが硬直し、舌が腫れ上がってしまった。さらに顔を殴られ、体は痙攣を繰り返した。ジョンの体は衰弱し、寝たきりになってしまった。
「魔女」が現れるようになってから、ベッツィはたびたび失神するようになっていた。だがベッツィが失神すると「魔女」は静かになった。当然人々は「魔女」の正体をベッツィに求めたが、それだけで全てを説明するのは不可能だった。
1820年12月19日、ジョンがベッドの中で昏睡状態になっているところを家族に発見された。「魔女」の声は勝ち誇って「ジョンに毒薬を飲ませてやった」とせせら笑った。傍らを見ると医者から処方された薬のびんが置いてあったが、中身は見たこともない「黒い液体」だった。ジョンは深い昏睡状態から回復することなく、翌20日に死亡した。
それから数ヵ月後、煙突で大きな音がしたかと思うと、暖炉から砲弾のようなものが転がり落ちてきた。それは煙を上げながら「魔女」の声で「ここから出て行く。7年は戻らない」と言い残して去っていった。
7年後、また再び窓を引っかく音がし始める。すでにベル家にはベル夫人と息子二人しかいなかったが、夫人らはそのまま音を無視して暮らしていた。2週間後、あの「魔女」の声が「107年後に戻ってくる」と言い残し再び去っていった。しかし107年後の1935年には結局何も起こらず、ここに事件は終焉を迎えた。
この事件は、ベッツィ・ベルが父親のジョンに性的虐待を受けていたのが原因ではないかと推測されているが、今となっては確かな証拠はない。
フォックス家の「霊媒姉妹」
アメリカ、ニューヨーク州ロチェスターの東にハイズヴィルという小さな村があった。ここの貧相な家に移り住んで来たのが農業を営むフォックスの一家4人で、飲んだくれの父親と人の良い母親、そしてマーガレット(当時15歳)とケイト(11歳)の2人の娘だった。姉妹には他にもロチェスターに住む姉リア(当時34歳)と近くに住む兄ディビッドがいた。
1848年3月、フォックス家は原因不明の「ノック音」に悩まされ始めた。音はマギー(マーガレット)とケイトの寝室から聞こえるらしい。始めは不審に思っていた家族も、やがてしつこい騒音にうんざりし始めた。
その月の31日、またしても例の「ノック音」が始まった。そこで妹のケイトが気まぐれに指をパチンと鳴らすと、「音」がドンと一回返ってきた。これには家族全員が驚き、続けてケイトが「じゃあ10数えてみて!」と言うと「音」は10回鳴った。姉妹の年齢を尋ねてみると、これもピタリと当てた。やがてYESは2回、NOは無音というルールで「霊」と会話することが可能になった。
この会話で「霊」は以前住んでいたこの家の主人に殺された男であること、その主人に500ドルを奪われたこと、名前はチャールズ・ロスマ、5人の子供がいることなどが次々と明らかになったのである。
その頃になると噂が広まり、フォックス家には数百人もの見物人が押し寄せ、怪現象を目の当たりにしていた。この騒動がわずらわしくなってきたフォックス家は、マギーを兄のディビッドの所へ、ケイトを姉のリアの所へ預けることにした。
それから数年を経てもマギーとケイトの所には「ノック音」が付いて回り、また二人の「霊媒」としての世間の評価も衰えなかった。やがて姉のリアは二人の姉妹と「交霊会」をしてニューヨークを巡業するようになった。この巡業は大成功を収め、姉妹は「霊媒」としての名声を確固たるものにした。またこのことは19世紀の「心霊主義(スピリチュアリズム)」の幕開けともなり、世に「職業霊媒師」をあふれさせることとなる。
最初の「ノック音」がしてから40年経った1888年11月、マギーとケイトは新聞紙上で「全てがごまかしだった」と告白した。初めはひもで縛ったリンゴで床を叩き、後には自らのひざ関節を自在に鳴らす「技」を編み出した。しかし多くの心霊主義者たちはこの告白を信じず、彼女らが開いた19世紀スピリチュアリズムの幕がこの告白で閉じることはなかった。
マギーとケイトの2人は乞食同様の晩年を過ごし、さびしくその生涯を終えた。唯一幸福に暮らしたのは、二人を巡業につれ回して大金を得た姉のリアだけだったという。
夕張の「幽霊問答」
1920年(大正9年)9月、北海道夕張村の小学校で、毎晩明け方になると宿直室の戸を「トントン」と叩く音がするようになった。3人いる宿直員は気にしなかったが、連日決まった時間に音がする。しだいに気になり始めた。音が鳴った直後に戸を開いたりしてみたが、戸の外には誰もいない。
風やネズミともせいとも思えず、翌日音が鳴った時、宿直員の1人が「お前は狐狸(こり)か、それとも亡霊か。狐狸なら2つ、亡霊なら3つ叩いて見せろ」と叫んでみたところ「トントントン」と音が返ってきた。
そこで「亡霊だというなら誰かに恨みがあるのか。それとも弔って欲しいのか。恨みなら3つ、弔いなら5つ叩け」と言ったところ、音は5回鳴る。「お前は1人なのか。それとも他にいるのか。1人につき5回叩け」と言うと、音は15回鳴った。「3人か。わかった、明日お寺に頼んで法事をしてもらう。だからもうここに来てはいけないぞ。わかったら7回叩け」すると音は7回鳴った。
翌日の9月21日、小学校の職員が僧を招いて法要を行った。職員が学校の歴史を調べてみると、30年前の学校建設の際、3人の土方が土砂に埋まって圧死するという事故が起きていることがわかった。そして「亡霊」との約束通り、この日から戸を叩く音はしなくなった。
その後の1925年(大正14年)9月21日の夜11時ごろ、職員室入口のガラス戸が「ガラガラッ」と開いた音がした。新任の宿直員が駆けつけて見たが、戸は開いていなかった。しかし窓ガラスから外をのぞいたところ、ポプラの木の下に煙のような人影がぼぅっと浮かんでいた。
その宿直員は震え上がったが、前年の9月21日は「亡霊」のために法事をした日だったので彼らがお礼に来たのだろう、と村ではもっぱらの評判になったという。
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