新人賞入選作「気怪」〜初期短編集「飛人」に収録
〜1984年

「気怪」トビラ絵。

 

記録によれば1984年8月14日から作業を始め、9月26日に脱稿して小学館新人賞に投稿したとある。
今年で20年も前のことになるのだ…しみじみ。(この文を書いているのは2004年8月24日。)
描き始めは「スクラップスター」と同じ美術部の同人誌に載せるつもりだったようだが、途中で気が変わり投稿したらしい。そのおかげで気負いすぎずうまくいったのだろう。

この作品の世界設定は「super odyssey CABSTON」と同じもので、キャブストン本人も脇役で登場する。
メカデザインや描画技術はこの時代の最高レベルに達した。
「構成力がない」「キャラ立ちが弱い」などの欠点はたいして変わっていなかったが、構成に関しては本編の話の前後にプロローグ・エピローグを挟むことで強引にごまかすなど工夫の跡も見られる。

美術部の後輩達は僕が入賞することを確信していたらしいが、僕自身は五分五分だと思っていた。
入らなければ佳作にもかすりもしないし、入るのならトップだろう、と。
「目標1000p!!」の張り紙をしてから通算で255ページしか描けなかったものの、絵に関しては別人のように進歩した。いちおうこの時点でやれることは全部やったし、全力を尽くしたという充実感があった。
あとは天命を待つのみ…そんな心境で、一次選考や二次選考の発表も自分ではいちいち確認しなかった。
後輩達が「名前載ってますよ〜!!」などと教えてくれるのを聞くのみだった。だが一次選考、二次選考など自分にはどうでもいい。本選に入らなければ無意味だ。

そんな泰然とした(というか、単に呑気なだけだが)僕でも、夜中に小学館の編集者からの電話があり、入選内定を告げられた時は興奮で足が震えた。
最初「本当に17歳なの?」と聞かれた。絵のレベルからもっと年のいったアシスタント経験者かと疑われたらしい。現在の17歳ならもっとすごい絵を描く人がいるだろうが、当時としては珍しかったのだ。

12月、ツトムをつれて上京し、小学館漫画賞授賞式に出席した。
担当になった編集者にいろいろと欠点を指摘されても、まったくその通りで反論ができない自分がくやしかった。
ツトムと映画「ゴーストバスターズ」を見たことを憶えている。

年の暮れ、「気怪」が掲載された少年サンデー85年1月1日号が発売されたが、見本が送られてくるわけでもなく連絡もなかったので、しばらく気がつかなかった。
後輩に「とっくに売ってますよ!!」と指摘されて、あわててクソ寒い中、コンビニに自転車を走らせた。
3件目ぐらいでようやく売れ残りのサンデーを見つけて買った。都会と違って田舎は人口密度が低いので、コンビニもまばらにしかなく、えらく走ったという記憶がある。

自分の作品がちゃんと印刷されて、他の有名な漫画家の作品と一緒に載るというのは、やはり至福の体験だ。
だが陶酔の時間も長くは続かない。他のプロの漫画と比べてしまうと、硬くて見づらい絵だと感じる。一口で言って「こなれてない」。
肉眼で見る原稿と、印刷されたものとでは、ぜんぜん違う。肉眼ではきれいに見えていた絵がまったく汚くつぶれてしまっていたりする。今後は印刷されることを前提にした絵を描く必要性を痛感した。

賞金に30万円をもらった。
漫画の内容などわからない親にとっては、「現金を稼いだ」という事実が大きな意味を持つ。
一学期にソフトボールで左ひざの半月板を損傷していたのだが、親が治療費を出し渋ったために病院に行けず、半年もの間足を引きずる生活をしていた。
賞金が入ったことによって親も入院させる気になったらしく、卒業間際に約一ヵ月入院生活をした。
このため卒業式にも出られなかった。(別に出たくもなかったが…。)
賞金はこの手術代に消えた。
自分の好きに使ったのは、エアブラシのピースなど2万円ぐらい。


かねてからの自分の目標通り、「高校在学中に賞を取る」ことを実現させたにもかかわらず、僕は親に漫画家になる、と言い出せないでいた。
賞を取ったことで自信を深めるどころか、むしろ逆に自分の致命的な弱点に気付いてしまい、自信を喪失しかけていたからだった。
それはあまりにも致命的な弱点だった。このままでは漫画家にはなれない…と思った。

ゆきとクロニクルへ
ゆきとの書斎トップへ
ゆきとクロニクル