新聞奨学生戦記(1)〜僕の通過儀礼
〜1985年
高校卒業後、僕は東京デザイナーズ学院の商業デザイン科に入学した。
現在はマンガ科やアニメ科があるようだが、当時は商業デザイン科と工業デザイン科しかなかった。

新聞奨学生制度を利用し、住みこみで新聞配達をしながら学校に通うのである。
親からの勧めもあったが、僕自身「やってやろう、何でも見て経験してやろう」という気持ちが強かった。

この気持ちは「気怪」の新人賞受賞後の自信喪失に関係している。
賞を取ったあと気付かされたことは、自分という人間の中身のなさだった。
絵がうまいだけのただの高校生。世の中のことをな〜んにも知らないひよっこ。
こんなんでプロの漫画家として、一体なにを読者に見せられるというのだ?
このまま担当編集者の下で新人漫画家修行したって、編集者の言いなりになるような使い捨ての漫画家になるだけだ。
編集者に反論できないような漫画家にはなりたくない。
じゃあどうやって人間の中身を充実させるのか?
これははっきりわかっていた……苦労するしかない!
世間の荒波の中に身を置いてみて、自分を試すのだ!
荒波は激しいほどいい!

というわけで、世田谷は千歳烏山にある朝日新聞の専売所に配属されることが決まった。
退院してわずか一週間しかたってなかったため、一ヵ月のギプス生活で左足はもやしのように筋肉が落ちており、まともに歩くことすらままならなかった。
リハビリは超ハードな新聞配達だ。

新聞奨学生の一日は次のようなスケジュールとなる。

・前日。翌日のためのチラシを「チラシ折り機」にかけてまとめておく。配達員はそれぞれ自分の分を自分でまとめる。しかし機械は一台しかないため、順番待ちとなる。
チラシの多い週末にはチラシの束を二つ作らなければならなくなり、順番がケツになると配達の直前まで眠れないこともザラ。

・午前3時〜4時ぐらいに新聞が印刷所から届けられる。
僕の担当していた5区は朝日新聞が450部前後、日本経済新聞が200部前後、その他スポーツ新聞や英字新聞があわせて50部ぐらいあったと思う。一度に自転車に積める分量ではないので、ルートの途中「中継地点」が決めてあり、店の人が軽トラで残りの分をそこに置いておき、補給しながら配るようになっている。
配達員は遅くとも5時前には起きて、新聞にチラシの束を挟み、中継地点用の新聞を梱包し、自転車の前後に新聞を積めるだけ積んで出発する。

・7時すぎぐらいにはすべて配り終わり、専売所に帰還。
食堂で朝食を食べる。

・電車に飛び乗り、学校のあるお茶の水へ向かう。
僕はこのとき生まれて初めてラッシュアワーというものを体験してショックを受けた。まるで人間性を剥奪された、養豚場の豚にでもなったような気分だった。新聞配達よりもこっちの方がはるかに苦痛だった。

・学校では、新聞奨学生だけを集めた授業というのが午前中に行われる。
クラス全員同じ境遇の人間なのだが、どうも話を聞いてみると、僕の専売所ほどハードな仕事はあまりないみたいだった。
正午になり、入れ替わりに普通科の学生が入ってくる。どいつもこいつもチャラチャラした格好をして、見るからに「親のスネかじってます〜〜」という感じで、敵意を憶えた。

・昼飯は外食。

・午後4時ぐらいから夕刊を配り始め、午後6時ぐらいに配達完了。夕刊は朝刊ほどの部数はなくチラシもないのでぜんぜん楽。

・専売所の食堂で夕食。その後翌日のためのチラシ折り作業。

月末近くになると、これらに加え集金作業が加わる。
僕にとっては配達の肉体労働よりも、この集金作業がつらかった。
ふつうに払ってくれる一般家庭は昼間に回る。いい人もいれば横柄な人もいる。
アパート暮らしの独身者は昼間は不在のことも多く、暗くなってから足しげく通う。それでもちゃんと払ってくれる人はいいが、支払い拒否したりする外道が10件くらいは必ずいる。
こいつらのために徹夜になってしまうこともしばしばあった。

それでも朝日新聞では配達員に勧誘のノルマは課さなかったので、僕は好運だった。
読売新聞の奨学生は勧誘のノルマを課されていたという。
中継所が読売と一緒だったため、そこの配達員の人と友達になっていろいろ聞いた。
その人は体を壊して学業半ばで田舎に帰ってしまった…。

自分の部屋は3畳の個室で、トイレは共同、風呂はないので近くの銭湯へ行く。
初めての一人暮らしは寂しくもあったが、むしろ開放感の方が大きかった。
しかしあまりに部屋が殺風景に感じたので、廃品回収に出してあるポスターなどを拾ってきて貼った。年度の変わり目には学生が出入りするため、アパートの前にはこういったものがたくさん捨ててあるのだ。
レコードプレーヤーも捨ててあったので拾ってきて活用した。専売所の所長が呆れていた。

一学期はいちおうまじめに学校には出た。
しかし授業のほとんどはあまりにもつまらなかった上、とんでもない量の宿題を出されて頭に来た。
新聞奨学生がどのような労働をこなしているか、まったく知らないとしか思えない量。
それでもデッサンと色彩の授業はためになるので出た方がいいと思った。
だが色彩の講師はとんでもなくムカつく奴で、こんな野郎の授業は二度と出るかと思った。
デッサンの講師はいい人だったが…。

マンガ研究会には入ったものの、夕刊を配り終えて電車に飛び乗り、息せき切って教室に着いた時には「はい、解散」。千歳烏山からお茶の水まではかなりあるので、どうやっても間に合わないのだ。
困って研究会の人に事情を説明すると、夜のコンパに出てくれという。
チラシ折りや集金の仕事があるのに、コンパなんかできるわけがない。
結局、部活動はあきらめた。

そんなことがいろいろあり、新聞配達が板につくと反比例するようにして学校には行かなくなっていった。
ゆきとクロニクルへ
ゆきとの書斎トップへ
ゆきとクロニクル