文・構成 / 木城ツトム

昨今は、どうやら「恐怖ブーム」であるらしい。

夏ともなれば、本屋にはその手の文庫本が立ち並び、一角にコーナーを設けるほどだ。近くのコンビニエンスストアでも、この時期、必ずその手の本の4〜5冊は見つけることができる。

その手の本がめっぽう好きな私も、しかし、最近はいささか食傷気味なのである。というのも、読む本読む本、どこかで読んだような怪談、因果関係がしっかりと描かれる心霊体験、起承転結が出来過ぎの怪奇実話……、それでも読んでみて怖いのならばまだいいが、怖くなかった日には金と時間をドブに投げ捨てた気分になってくる。
どうしても粗製濫造の感を禁じ得ないのだ。

だが実は、このことには私にも責任の一端がある。

私はある時体験した「恐怖」を、未だ乗り越えられずにいる。そして、現在までその「恐怖」を超える体験はおろか、怖い本やホラー映画もお目にかかったことがない。
つまり何を読んだとしても、また観たとしても、「怖くない」のだ。私が体験した「恐怖」の体験が、全てをうち消してしまうかのように……。

その「恐怖」の体験を、今からここにお話しする。

これからお話しするこの体験談は、「友人の友人」はいっさい出てこない、まぎれもない真実の体験であることを、ここに明記しておく。

1986年から1989年にかけて、当時高校生で科学部の部員だった私は、部活動を通してこの恐怖の体験をすることとなったのだが、それは、まだ世の中というものを知らなかった若き日の私にとって、それまでの人生観を一変させる出来事であった。
そしてこの物語が指し示すのは、我々の常識や理屈がまったく通用しない「闇の存在」が、常に私やあなたの身近にも存在しているという、まぎれもない事実である。

誰の目にも同じように映ると思っているこの世の中が、まったく違うように見える人々が存在する。なんでもないと思っていた物に、意味があると言い出す人たちがいる。
「頭がおかしい」などと、端から言うのはたやすい。しかし、そうした「闇の存在」を目の前にした時、あなたはどれだけ自分の正気を、常識を保っていられるだろうか。
自分という存在を支えている自我というものが、いかにたやすく揺らぎ、壊れやすいか。
私がこのとき感じた恐怖は、その事だったのかも知れない。

なお、この物語に登場する人物名は基本的に本名を使っている。
ただし地域名に関しては、舞台となる地域に迷惑が及ぶことを考慮し、町村名の明記まではさけることとした。
もちろん、かの地におもむいてどのような結末になろうとも、私や木城ゆきとはいっさい関知しない。また、地域住民に迷惑が及ぶような行為は慎むようお願いする次第である。

また、本文中の赤色の文字は、それに対応する写真にリンクしている。この物語から10年以上経過している現在、当時の写真の入手に苦労したが、友人の協力も得られてここに日の目を見ることとなった。
この場を借りて礼を述べておく。

では、この恐怖と真実の物語を心ゆくまで味わっていただきたい。

木城ツトム