[572] スカイクロラ返信 削除
2008/9/7 (日) 03:50:56 kawamura

ミクからの転載なのだけれど、自分的にもいい感想書けとるなと思うので。

以下、ネタバレ気味に話しますから、見てない人は注意。
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俺は良し悪しの判断で言うと、中立の位置に居ると思います。 空戦を含めて映画としてはどうかと思うが、テーマは良い。
やっていることは毎度同じの押井監督にわずかな変化が生まれたとすれば、二元的な「権力と個人」「社会(群れとも言う)と個人」の物語を今回は中心軸にしていないこと(常に付きまとうのは「お前は群れからはぐれて、それでも生きて行けるのか?という問い。犬が犬の群れをはぐれて野良犬になり、のたれ死ぬさまを描いたりね)。
それでも物語の外側には「傍観者としての社会(大人社会)」が描かれていて、子供と大人の居る社会とは隔たっている様は描いているわけだけれど。二元だけど、真っ向対立している様を描くわけではない。
今回は隔たった片方の世界をのぞき込もうと言う映画。

そのへんの構造が分かっていないと、たとえば草薙が墜落した別の部隊のパイロットを「野次馬の大人たち」が哀れんで可哀相・・・という姿に「こいつを可哀相なんて言葉で侮辱するな!」と激昂する意味はわからない。
押井的には、大人とは違うハードな環境で子供は戦っているのに、子供を理解できない(子供の目線は知ろうとしない)くせに、「戦争で死んだ」という単純な可哀相フラグで哀れむ大人は子供に拒絶されるという様子を描いている。
ワイドショーで戦争を見るような気分で子供たちの世界を見下ろして、(理解できないから)哀れんで、みたいな現代の社会構造を、かりそめの平和世界とキルドレの代理戦争を重ねて見せている。

そんな世界に生きるキルドレも、社会の洗脳は受けているわけですよ。
子供は「大人になれ」という呪いをかけられている。
普通ならば「幻想から脱出して価値ある現実へ」「子供から大人へ」という単純明快なゴールを用意するけど、それが本当に本当のゴールなのか、あやふやなわけです。
それを登場人物が悩むのも現代へのメタファー。
ミツヤがクサナギを見て「子供が子供を生むなんて!」と嫌悪するのは、大人になれという呪いの影響。そして同時に永遠にキルドレであることに悩むというのは、「時間が経ったら自然に大人になれるって本当か?」という今の子供の不安の裏返しなのです。
そういう構造が見えてこないと意味がわからない。
そして「大人にならなくても、子供のままでも何かの答えはあるんじゃないの?」というメッセージがこの映画には有る。
だからユウイチはクサナギにそれを託して死ぬ。父親を倒して大人になる、という結論が出るとしたら、それは物語世界を超越して退場するということ。そんな演出はこの話の構造ではありえない。だからあれはあれで正解。
そしてユウイチ本人も絶望して死ぬわけではない。「同じことを繰り返していても、見える景色は違うのだ」という意思を持って死ぬ。再生して再び繰り返すことに希望を見出している。

結論、キルドレのような子供大人は現実にいるのが今の世界。
昔は父殺しをしなければ大人にはなれなかった。
しかし現代は大人にならなきゃ生きてゆけないというわけではない。
時間はどんどん経過してゆくが、大人になれない自分に孤独感を抱いたり、閉塞感を持ったりして生きてゆく人間は、ついに絶望して自殺を望む。
しかしそれでもなお希望を見出そうよという話だよね。
「何度でも繰り返し?何度でも繰り返せばよいんだよ」という。
大人になることが全てではない。
子供のまま殻を破るということは不可能なのかという問いかけ。
クサナギは子供のまま子供を生み、司令官になって、子供のまま大人になったことに絶望していた。
しかし、その選択肢にも先はあるのではないか・・・という希望を持たせたかったのがこの話だろう。

ちとムツカシイよね。
「こうしろ!」って言われないから、命令されることになれた人間にはこの映画はちと辛い。
そして俺的には「父親を殺してこそ子供の華なのだ!子供時代のクライマックスに登場するラスボス戦に胸躍らせるべきだろうガッッ!!」とは思う一方、俺はそういう意味ではスタンドアローンRPG的人間であり、現代は「オンラインRPG的人間」のが多いのかもしれないとも思う。
クリアすることが全てじゃない生き方。
まあ、在るのは仕方なくて、そして彼らが一方的に淘汰されればいいというマッチョな世界を望むのは俺もおかしいカナとは思う。

ただ、エヴァみたいに「オタクの罪に徳政令を出す」というのはいかがとは思う。

以上、雑感。

INCM/CMT
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